少し前ツイッターにも書きましたが、最近ハッピーシュガーライフ(以下「ハピシュガ」)を読みました(アニメ版は見られていないので、原作を八巻まで)。かなりはまって、いろいろ語りたくなりました。
 一応内容を簡単に説明しておくと、愛を知らなかった女子高生・さとうが親に捨てられた幼女・しおを拾って、彼女との同棲生活(というか軟禁)を守る話です。心から愛しあっているさとうとしおのラブラブぶりと、その甘い生活を脅かす者たちへのさとうの容赦のなさ・それでも彼女らの生活が崩れてしまいそうなスリルとのギャップがすごいです。
 作者さんは単純に、描きたい「愛」の形を描いただけだと思います。しかし自分は、ハピシュガから勝手に、これからの時代への示唆を読み取りました。そのことについて、書いてみます。


 自分がハピシュガを読んで強く感じたことは、


 社会への強い不信感


 です。
 同作の世界観は、一応は平和な現代日本です。しかし、登場するキャラクターが(さとう自身も含めて)頭おかしい・やばい人ばかりで、主人公の周りはあまり平和とは言えません。
 そもそもさとう自身、幼女を軟禁したり、二件の殺人(一件はぎりぎり正当防衛?)と死体の損壊や遺棄をしたり、他にもいろいろ人を傷つけたり騙したり利用したりしています。法に照らせば、彼女は
かなり悪質な犯罪者です。つまり、自業自得とはいえ、さとうは大人や公的機関などの「社会」を頼れない状況にあります。
 加えて言えば、さとうもしおも、家族という最小の「社会」からまともな愛情を受けずに育ってきたため、お互いしか本心から愛して支え合える相手がいないのです。


 しかし、さとうは安直なヤンデレとは違って、しおを全肯定し、(軟禁していることを除けば)優しく愛しています。そしてしおも、そんなさとうを実の家族よりも愛しています。
 そして自分が読んだところまでだと、さとうはある程度心を許していた友人を口封じに殺してしまい、海外逃亡を企てます。その過程でなんとしおは、彼女を共犯者として支える覚悟さえ固めてしまうのです! 主人公たちが、まともに社会復帰できない状況にどんどん突っ込みながらも、自分たちの愛を貫き続けるのです。


 二〇一〇年代(テン年代)前半に出てきたフィクションの多くでは、主人公たちが困難で予測不可能な状況と戦うことになっても、彼らが帰るべき「社会」はかろうじて存在していたように感じます。しかし以上で語ったように、ハピシュガの主人公二人は、とても普通には社会に帰れない状況にいます。
 そして、ややこじつけ臭くなりますが……。自分も最近、今の社会への不信感を強めています。日本の財政赤字には解消の道筋が見えませんし、国際情勢も不安定化していく一方で、今自分が生きている社会が根底から崩壊してしまう兆候を、感じざるを得ないのです。
 最近の自分も、今の社会に対して不信感を持っています。だからハピシュガという、社会を信じられない少女と幼女の物語がうまく「はまった」のかもしれません。


 ハピシュガの作者さんも、商業作品を描いている漫画家さんである以上、社会のルールを守って「まっとうに」生きている社会人であるはずです。ハピシュガの作中でも、さとうたちが何らかの裁きを受ける結末はありうると思います。
 また自分も、できるだけ今の社会のルールに従って「まっとうに」生き続けたい、と思います。よって本記事では、「社会の法を犯してでもやりたい放題やっていい!」と言いたいわけではありません。
 しかし今、その社会さえも消し飛んで、頼れるものが徹底的に失われてしまうかもしれない。そういう不安を自分が持っていることを、再度強調しておきます。
 ならば今我々に問われているのは、今の社会が崩壊してしまっても生き抜く術。そして、他の全てが失われても、自分にとって大切なものを守る術を考えることかもしれません。

 以前書いたように、自分はいわゆるハルヒ世代であり、十代の多感な時期の多くを二〇〇〇年代(以下「ゼロ年代」)に過ごしてきました。
 そのため、もう二〇一〇年代(以下「テン年代」)も終わろうとしている今でも、ゼロ年代のフィクションを懐かしむ気持ちはあります。テン年代の作品について考えるときでも、例えば「ハルヒよりSAOのほうが好き」というように、ゼロ年代の作品を、一種の基準にすることはあります。
 よって本記事では、自分の中のゼロ年代に蹴りをつけるため、ゼロ年代からテン年代へのフィクションの変化について語ってみます。自分が知っている作品を基に個人的な印象として語ること、ゼロ年代の作品については批判的な書きかたをすることを、あらかじめ断っておきます。


 まず、少なくとも日本におけるゼロ年代とは、


「愚かな人間もその社会も変わらない」「もう何も新しいものが生まれない」という閉塞感が極まった時代


 であるという印象を、個人的には持っています。ここでは、実社会での事象の話は割愛しますが……。
 とにかく、その閉塞感を反映するように、当時流行っていたフィクションの多くは、根底に閉塞感を持っていたと思います。
 作品のチョイスはすごく偏っていますが、自分なりに類型化してみると、


・「ハルヒ」「化物語」のような、変わらない日常(と、その枠を壊さない程度の、スケールの小さな冒険)を描く物語
・「バトル・ロワイアル」「Fate/stay night」のような、限られた枠の中での抗争を描く物語(このあたりの議論は、宇野常寛氏の著書「ゼロ年代の想像力」に詳しいです)
・「最終兵器彼女」「虐殺器官」のような、救いのない結末を描く物語


 ……などです。この類型化が的確であるとは断言しませんし、もっと広く見てみれば、他のパターンも出てくると思います。しかしここでは、「ゼロ年代のフィクションは、実社会で深まる閉塞感を反映していた」という主張だけは、理解していただければ幸いです。



 その後、二〇一一年の震災が、ある意味閉塞感を打破したのだと思います。「現実の問題に対して行動しなければ、生きていけない」ということを、日本人に対して突きつけることで。
 それから、


 人間は愚かで弱いかもしれないが、それでも行動すれば成長や成果を得られる


 という価値観が、テン年代のフィクションの主流の一つになったように思います。
 それを代弁する代表的な作品と言えば、やはり「進撃の巨人」であることには、多くの方の同意が得られると思います。また、個人的に好きな作品をいくつか挙げると、「暗殺教室」「SAO」「シン・ゴジラ」などにも、同様のテーマが多かれ少なかれ込められていたように感じます。
 加えて言えば、いわゆる「なろう系」においても、少なくとも主人公が何らかの行動をして成果を得ている、という点では同じだと考えます。
 日常ものという、成長や変化が描かれにくいと思われるジャンルにおいても同様だと考えます。ここでは代表的なものとして「ごちうさ」を挙げますが、同作では話が進むごとにキャラクター一人一人の成長や、彼女ら(念のため説明しておくと、主要キャラクターのほとんどが女性です)の関係の深まりが描かれています。
 ゼロ年代の閉塞感を打破しようという動きが、少なくともここ十年ほどのフィクションには見られたと思います。


 最初に書いたように、今やテン年代の終わりも近いです。また自分自身、常に今流行っている作品を追い続けて、ゼロ年代的な感性を「洗い流す」努力をしてきたつもりです。
 よってこの記事の内容には、少し今更感を覚えています。しかしこれを書くことで、自分なりにゼロ年代について総括できたと思います。
 また最近では、まだ見ぬ未来である二〇二〇年代のフィクションのトレンドについても、おぼろげながら考えがまとまってきています。それについては、また別の機会に書いてみたいと思います。

 この記事の前に最後に書いた記事が、今年六月二十五日のものです。つまり自分は、もう二か月近くブログをさぼったことになります。
 そして思うのが、やはり自分は、ブログを書くのがそこまで好きではない、ということです。ときどきは書きたくなることもあります(現に今日書いています)し、「本当はやればできるのでは?」という気持ちも少しあります。
 しかし、以前も一か月近くさぼったり、数か月単位で放置したりした「実績」があるので、ブログは自分にとって、そこまでやりたいことではないのだ、と認めざるを得ません。


 自分にとって、毎日ブログを更新するのはやはり負担です。一記事書くのに、下手すれば一時間以上かけてしまうからです。
 一方で、例えば日々の自分の考えを発表するなら、ツイッターのほうが手軽です。それに最近はnoteもやっているので、(もし売れればの話ですが)ネットに公開した記事で収入を得るなら、そちらのほうが収益性がいいのではないかと考えます。それに加え、長編小説を書いている間は、他の作業に一日一時間かけるのも惜しく感じます。
 そうしたもろもろの理由で、自分の中ではブログの優先度が低いのです。


 もうこのブログには、収入源としてあまり期待しすぎないことにしています。そして今後も、時間が取れた時に、「一つのツイートに収まらないけどnoteで売るほどではない」程度の内容を公開するにとどめたいと思います。……すでにそうしている気もしますが。
 みっともない言い訳のような記事になりましたが、「ブログで稼ぐ」にこだわらなくてもいい、という解放感が、今はあります。
 それでも、やはりブログを書きたくなったときは書くので、当ブログをこれからもよろしくお願いいたします。